イアン・マキューアン自身が語る「Sweet Tooth」

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イアン・マキューアン(Ian McEwan) の小説は日本語では読んだことはありません。
現代イギリス文学を代表するブッカー賞受賞作家だし、映画化もされている。新しいところではキーラ・ナイトレイ主演の「Atonement」(つぐない)とダニエル・クレイグ主演の「Enduring Love」(愛の続き)が挙げられます。だから邦訳ももちろんありです。頁を開くと二字熟語が頻出する端正で硬質な図だろうなぁと思います。緻密な描写と巧みなストーリーテリングは、翻訳者には非常に好ましい作家のはず。でも別の見方をすれば、翻訳者の裁量を許さない厳選された簡潔な一語一句を日本語に置き換えていくのは骨が折れる作業でしょうね。

2012年夏に上梓された「Sweet Tooth」は日本語版がまだ出版されていないし、これから読む方のお楽しみを奪うことはしたくない。でも既読の人やマキューアンの作品を愛する人たちとシェアしたいことも沢山あります。なので、エンディングにはふれずに、この魅力溢れる小説を読んで思ったこと、そして今週ロンドンで行われたトークの内容を書いてみることにします。

1972年を振り返る女性の一人称小説。セリーナ・フルームは、父がイギリス国教会主教というクラシックな家庭環境に育った数学とチェスに強いブロンド美人。大の小説好きで大学では文学を専攻したかったのだけれど、数学で才能を伸ばすべきという母親の強い薦めに負けて、ケンブリッジの数学科に入学。レベルの高い象牙の塔では劣等生で、小説にのめりこむ日々を送っていた。ボーイフレンドと一緒に彼の教授であるカニングとお茶をする機会をもったことからセリーナの運命がかわっていく。MI5に絡むカニングの愛人になるも、彼はセリーナをMI5にリクルートするお膳立てをしておきながら、彼女を捨て姿を消してしまう。

MI5の下級職に就き、安月給で地味な事務職をこなしていたセリーナに、小説好きであるという理由である任務が与えられる。冷戦下にあったMI5は、反共産主義的ジャーナリズムや小説を書くライターに資金供与して出版を促すソフトな戦略をとっていた。金の出所が外務省であることは伏せられている。セリーナの任務はトム・ヘイリーというライターに援助を受けさせること。トムの書いた小説に惚れ込んだセリーナは、トムが住むブライトンへ赴く。そして小説のみならず作者に惹かれていき…スパイ小説の顔をしているけれど、70年代という英国が疲弊する時代を背景に巧妙に組み立てられたメタフィクションであり、愛と偽りの物語だ。小説とは何であるかを非常に凝った方法で提示し、それを読むことの美味しさを十分に味あわせてくれる。登場人物のひとりに「詩なくしては生きていけない」と言わせるように、小説は自分の中でいかに重量な位置づけにあるかと感じさせてくれた。わたしは本は汚さない主義なのだけれど、書き込みを入れながら読み続けてしまいました。文学鑑賞の自習テキストになりそうな本です。

冒頭で語り手に自己紹介をさせ、物語の終結を予告しておきながら、読者をぐいぐいと引き込み、虚構世界を複雑に膨らませ、ストーリーを展開する力量は並大抵ではないよなぁ。

また、へイリーが書いた小説が中で登場します。外側の小説と内にある小説は変奏曲のようなもので、おたがいに複雑に共鳴し合う。入れ子構造の小説が大好きな自分のセンスにフィジカルなヴァイブレーションとして伝わるのにぞくぞくしました。

最終章で、読者がこれまで読みすすめてきたストーリーの図柄をすっかり変えてしまう構成は実に上手い。トランプのカードをめくるように嫌みなく鮮やかにやってのける。先に載せた写真のように、螺旋階段を上り詰めてから下をのぞいて異なる空間をみせられるような感じです。

敢えてひっかかる点を挙げれば、ケンブリッジ卒で美人でブロンドでセックス好きのヒロインのキャラクタライゼーション。この話のために仕立てたご都合のよさを感じ、リアリティと人間性の厚みに欠ける印象を受けました。女心の描き方がとりわけ上手いと思う反面、やっぱり男が作った人物像だわとも感じてしまうのは、聡明でも美人でもない同性としての僻かしらん。また、女性の一人称のヴォイスであるのに、文体が酸いも甘いも噛み分けた中年男を匂わせる。こういうマキューアンらしい書き方ってすごく好きではあるのだけれど。

以上のような感想は、作者の思惑から全くかけ離れている可能性は大です。アートと同じく、小説を読むという作業は個人の経験であり、人間の数だけ異なる解釈です。マキューアンが過去にインタビューで笑いを誘う逸話を披露しています。大学を受験する息子のAレベルのコースワークの課題が「Enduring Love」だったので、作者である自分が手伝ったところ低い評価が下されたそう。



とはいえ、やっぱり愛読者としては作者の生の声を聞きたい。木曜の夜にロンドンのキングス・プレイスで行われたディスカッションに足を運びました。イアン・マキュ―アンがジョン・マランと「Sweet Tooth」を語る夕べ。ちなみにジョン・マランはロンドン大学UCLの英文学教授で、彼が書評コラムを担当しているGuardian紙のブックイベント。ここから先は小説の詳細にふれるので念のため。

これだけ精密な構成の小説を書くには青写真を精密に描いてからとりかかるのかという質問に対して、ラフなスケッチを描いて何を達成したいかは明確にするけれど、細かいところは書き進めていきながら詰めていくという答えがかえってきました。ジャズや絵画とおなじように流れにまかせていく部分があり、書くということは発見であり、それが歓びでもあると言及しています。

また、描写については透明な文体(glass prose)と凝った文体(わざとfondling with the detailsといういい方)の間で揺れるという話で、ナボコフやコンラッドの名が挙げられたのは、ミニ文学講義という趣も。

1人称の語りは現代の小説で多く見られるといわれ、それなりの欠点もあるが、スパイ小説の場合は主人公が知っていることが限られるという点で便利な手法なのだといわれると、ほうほうと納得します。

マーティン・エイミス、批評家イアン・ハミルトン、出版人トム・マシュラー、当時文壇に関わる人のたまり場であったソーホーのパブ「The Pillars of Hercules」など実在の人物や場所を登場させていることについて云々いう人は多々あるが、虚構の世界に現実味を持たせるために名前は替えなかっただけのことで、深い意味はないという返答。

また、登場人物の名前はどのようにして考えるかという質問に対しては、家族や友人に関係せず、ストーリーを推察できないニュートラルな名前を考えるのだけれど、これは列車で空席をさがすみたいなもので、難しいという答え。イギリス在住じゃない方のために付け加えておくと、フルームはサマセットにある小さい街の名です。

入れ子になっている小説についても質問もでました。はじめはストーリーの形をしていたけれど、小説全体の流れに逆らうので要約に変えたそう。マネキンを愛する男の話は明らかに「In Between the Sheets」の話の焼き直しで、双子の無神論者が牧師の代わりに説教をする話は、アイディアとして持っていたのだけれど小説に発展させるのを諦めた題材。貧乏な教師の話はこの小説のために作ったということ。

また、わたしと同じようにセリーナの設定と描き方に否定的な見方をする女性読者の発言もあり、自分がとりわけ捻くれていたわけじゃないのねと、ほっとしました。そういう発言にもウィットをみせてさらりと流す大人ぶり。

出版間際までセリーナの愛人はトム・ヒーリーという名だったのだけれど、サセックス大学でスペンサーを専門とする同姓同名のアカデミックが実在することが発覚し、急遽ヘイリーに代えたこと。サセックス大学卒だからもちろんブライトンの土地勘はあり、ヘイリーの家は、あたりをつけた通りで、自分のイメージに合う家をグーグルストリートビューで見つけたことなど、ファンを喜ばせる小ネタを披露するところも、講演慣れした余裕の作家さんです。

「Sweet Tooth」は故クリストファー・ヒッチンズ(Chritopher Hitchens)に献辞されています。このどんでん返し的な作りは彼の好みじゃないだろうと語るときには、親しい友を亡くした痛みが切々と浮かんでいました。

キングス・プレイスは小規模ホールで、わたしは前から2番目の席。(上の写真は広角レンズで撮っているので実際はもっと近距離。一応写真撮影禁止だったので本人登場前に撮ったもの)おまけにサインもしてもらい、大作家イアン・マキューアンを間近に拝する稀な機会を得たことに舞い上がってしまいました。初期の作品は死体を扱ったりして冷やかだったし、過去のインタビューやイスラム関係の論争などからエキセントリックなインテリをイメージをもっていました。でも、実物からは作家としての素晴らしいキャリアを積み、知識と教養に裏打ちされた大人の自信と余裕の影に、人間洞察に長けた人が持つ不思議な温かさとチャームが感じられました。白黒でポートレートを撮ることができたらどんなにすごいだろう。でも印画紙に浮かび上がるのは作家ではなくて一個人であり、この人のどのようなクオリティが前面にでてくるのだろうか、なんてことも考えてしまう。

ホールから出ると、空は日没前特有の淡い朱色を帯びた明るさを映していました。長距離列車から降りてきた客を改札口から吐き出す忙しなくて煤けたキングスクロスが、人々の息づかいと希望に満ちた街にみ。帰りの電車では仕事帰りのビジネスマンたちと並んでブッフェカーでビールをぷわっと立ち飲み。列車の揺れと抑えがたい高揚感とビールの泡。帰って寝るのがおしい夜でした。

2015年11月追記
Sweet Toothは「甘美なる作戦」というタイトルで日本語版が新潮クレストブックスから出版されています。日本語で読んでみたい方はぜひ。

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モノクロ写真好きによる「こだわってるこれについてひとこと言いたい」ブログ。犬が歩けば棒に当たる的に社会・本・映画・フードなど。使用写真は自前です。

10 コメント

  1. 溜息の出るような素敵な夜を過ごされましたね。
    読んでるだけで、羨ましくうっとりワクワクしてしまいました。
    映画は観ました。「つぐない」という題名でしたよ。
    キーナ・ナイトレイがあまりにも美しく、内容がぶっ飛んでましたがおかげさまで思い出しました。(笑)

    あ〜Sunnysiderさんのような、伝えたいことが簡潔かつ的確に文章にできたらどんなにいいだろう〜しかもバイリンガル!!
    いろんな生き方があるでしょうけど、一週間くらい入れ替わってみたいです。

    • mitoさん

      映画のタイトルをご指摘くださってありがとうございます。「贖罪」は日本版の本のタイトルでした。さっそく訂正しました。

      奥さん同士が入れ替わっておたがいの生活を体験するリアリティ番組があるんです。たいてい出演者はみんなぶうぶう文句をいいます。わたしの場合は月から金は勤労主婦でお疲れ。週末は一週間分の買い出しに掃除洗濯その他、ウィークデーに出来ない家のことをやっておしまい。家は古いし子どもたちは全然いうことをきかない。こんなのいやだぁって思われますよーー(笑)わたしの方こそ、ほのぼのしていてきゅんとくる写真が撮れるmitoさんと入れ替わってみたいです!

  2. 読後、「ウーン」と唸ってしまいました。

    Julian Barnesを取り上げら時もそうでしたが、小説の構成、作家の思惑を深く読むSunnysiderさんの評論は、常ながら、そして今回も秀逸ですね。

    それに、締めくくりのSunnysiderさんが作家を洞察して書かれた数十行と
    ポートレートに写し出すと、彼のどういうクオリティーが浮かび上がるのだろうかという視覚からの洞察も追求したいという欲求。
    英国の読者の大人ぶりと、それに応えて書く作家層の厚さ。双方は相乗効果なのですね。

    Ian McEwan、またもや知りませんでした。でも、知った今、読みたいです。
    Mitoさんへのお答えを拝見して分かったSunnysiderさんの1週間。読書の時間はどうして確保されてますか。

    • 釉子さん

      書くことで頭の中を整理できるし、どうせなら読まれることを前提に書いちゃえというかんじのブログです。おつきあいいただいてありがとうございます。イアン・マキューアンは読むことの楽しみを再発見させてくれた大切な作家さんなので、ちょっとリキがはいってしまいました。

      この機会にまず「Sweet Tooth」を読んでください。そしてどう思われたかをお聞かせください!その次はマキューアンの最高傑作といわれている「Atonement」、そして 「Enduring Love」。これはオックスフォードのアカデミックが主人公なので釉子さんの興味に合うかも。で、ブッカー賞もとった「Amsterdam」を読んで 「Saturday」これは脳外科医の1日の話ですが、ロンドンの土地勘のない人たちがどんな読み方をするのか興味があります。 そして発表年順にカバーして(Cement Gardenなんかはかなり今と違います)「Solar」は優先順位最下位、というところでしょうか。

      冗長の反対語って簡潔なのかなぁ。この人の簡潔な(?)文章とストーリーを構築する力量に惹かれます。
      もともと時間がないうえに、ブログ書きって結構時間とられるんですねぇ。なので本は沢山読めません。ネィティブじゃないしスピードがでません。だから選ばなきゃいけませんね。釉子さんのおすすめがあればぜひおしえてください。

  3. こんばんは!
    物語の内容がわかりやすく、簡潔に書かれていて
    隅々まで読まれて、記憶されてるんだろうなぁ~
    なんて、そんな所を尊敬してしまいました…
    (私が普段いかに雑に本を読んでいるか…バレましたね(笑)
    海外の文学はなかなか、敷居(ハードル)が高く
    進んで手に取ることが出来ず、もちろん作家さんも全然しらず(トホホ

    作品の質問を、直接作家さんに出来るなんて凄いー!
    ディスカションですか、なんか白熱しそうな(笑
    読者各々の受け取り方、解釈があるという事が
    作家さんにはとても興味がある事なのかも知れませんね!
    という事は、質問に対して答えはグレーゾーンにしておきたい事も
    多々有りそうですね^^

    • フォレさんってバイクに剣道にとアクティブなのによく本をよまれてますよね。
      こっちでは日本語の本は高いので、逆にハードルが高いんですよ。図書館がタダで借りれるのは英語の本だし。なので日本からやってくる知り合いたちは、あーたのお宅にあたしが注文しておいた本がアマゾンから届くからもってきてね、という強引なお願いをきくはめになります。ちなみにこの作家さんは日本じゃ知名度かなり低いはずです。こちらでも職場でイアンマキューアンのブックイベントに行くと自慢げに言ったら、あの人、死んだんじゃなかったっけ、といわれたくらいなので(とほほ)

      グレーゾーンは、イギリス流ウィットに富む台詞でかわしちゃうところが、スマートでしたよん。

  4. イアンマキューアンをこのところまとめて読んでいます。ちょっとスノッブで古っぽいのが私は気にってます。スィートティースも翻訳が出たので、読みました。面白かったです。スパイ小説とか読んだ事ないのでピントきませんが理屈っぽい女の子の恋愛小説ならわかりやすいでしょうか。これからもおもしろそうな本を教えてください。ただ、英語で読めないのがくやしいです。

    • こんばんは。翻訳でましたか。一度日本語で読んでみたいなと思っているのですが、機会がありません。端整でかっちりした文章を書く人で、こっちまでちょっと賢くなった気にさせられますよね。これはスパイ小説ではなく、理屈っぽい女の子の恋愛小説に賛成でーす。「贖罪」みたいに最後でぱらりと話の見方を変えさせるところがミソですね。英語は文法的には読みやすいんですが、ボキャブラリー(とくに抽象名詞の)の幅が必要です。

      肩の骨を折ってしまい、毎日の生活に難儀していて、ブログの更新どころではない状態です(泣)もうしばらくして落ち着いたらパワーアップしてカムバックの予定ですのでまたお越し下さい。

  5. ロンドンですね。マキューアンのファンの一人としては、そういうイヴェントが予め分かっていたら、それを聞くためだけにでも、ロンドンに出かけたと思います。

    濃密なひと時でしたね。想像すればするほど、ため息がでます。うらやましい・・・。

    日録を拝読しておりますと、「人生に退屈したら、ロンドンにいらっしゃい」との名言を思い出します。今回もまた、その思いにとらわれました。多分、ナショナル・シアターなどでも、役者や演出家のトークが行われているのでしょうね。特段の目的もなく、ロンドンに滞在するーーーという時間を
    いつか持ちたいものです。・・・日録拝読するといつも、この思いにとらわれます、嗚呼。

    • このイベントはたまたまFacebookで見かけて速攻で衝動的に切符を購入したものです。早口のおじさんですが、実際に話してみるとすごい引力を感じました。マキューアンはロンドン在住ですから(「Saturday」に出てくる辺りです)実際に歩き回ってみると作品理解が深まるでしょうね。日常から離れた大都市の違うペースの生活の中に身を置いてみるのって憧れます。ナショナルシアターを含むサウスバンクではフリーイベントなどもよく催されていますから、自分が公演のチケットを持っていなくてもホールのバーで一杯やりながら、タダの音楽を聴きながら人間観察だけでも面白いですよ。本屋での朗読会兼サイン会も意外と穴場です。どうですか、実現させては?

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