京極夏彦「姑獲鳥の夏」の英訳版レビュー

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奥が深い翻訳の専門的な見地からではなく、「この本にちりばめられた日本語の美をどう英語で魅せるというのか」というクエスチョンマークが渦巻く怖いものみたさ的興味本位に衝き動かされて、英訳版を買ってみました。

Amazonのロゴが印刷されたボール紙をばりばり剥ぎとると、出てきたペーパーバック
「The Summer of the Ubume」

上下左右のマージンが狭小で、ぎっしりつまった小さいフォント。はじめの50頁で虚無感に襲われました。日本語を解し、レトリックの美も愛でる能力をある程度備えた人間が、敢えてそれらが欠如するバージョンに金と時間を投入する価値があったのか、というクエスチョンマークにすり替わってしまったからです。

翻訳のクオリティが悪いと文句をつけているわけはありません。むしろ偉業を成し遂げた訳者にエールを送りたい。ただもうちょっと出版社と交渉して装丁に金をかけ、レイアウトやタイポグラフィに工夫をこらすくらいの努力はできなかったんでしょうか。できなかったんでしょうねぇ。出版社の方も何部売れるか見当つかなかったものと思われるし。デザインとコストがミニマムでマキシマムの販売効果を狙ったのはわかります。


ご存じない方のために書いておくと、「姑獲鳥(うぶめ)の夏」は京極夏彦の百鬼夜行シリーズ第1巻で、ちなみにwikipediaではこのように説明されています。

第二次世界大戦後まもない東京を舞台とした推理小説。作中に実体として登場はしないが、個々の作品のタイトルには必ず妖怪の名が冠せられており、その妖怪に関連して起こる様々な奇怪な事件を「京極堂」こと中禅寺秋彦が「憑き物落とし」として解決する様を描く。


作品内では民俗学、論理学など広範にわたる様々な視点から、妖怪の成り立ちが説かれ、「憑き物落とし」が「事件の種明かし」になることから、推理小説の枠内で語られることが多いが、中には伝奇小説などとする方が見合う作品も存在する.

京極夏彦の魅力を語れといわれたら、このブログサイトごと投入する覚悟じゃなきゃいけないくらいなのでわたしごときが、これこれこういう魅力が存在しない英訳版は百点満点のうち何点です、なんてスコアは出せません。なのでピンポイント的に一部を紹介します。

京極作品は、日本人の美意識のアンテナに強烈に響きます。わたしのように日常生活に日本語が欠けている人間には特に。リズムがよい。句読点ののひとつひとつに意味がある。古典的なそして意図的な漢字使いが絶妙。具体的にいえば、繰り返しを示す「々」が使われず「清々しい」ではなく「清清しい」とか遥々ではなく遥遥。拘らず(かかわらず)視る(みる)所為(せい)拘泥る(こだわる)慥か(たしか)能く(よく)などルビつきの漢字の粋さ。改行。頁の納まり方。InDesignを使って読者の目線でレイアウトを整えながら書く作業による、見た目の効果まで計算された完成度の高さ。惚れ惚れ。

りん、と風鈴が鳴った。
縁側に射し込んでいた西陽は疾(と)うに薄れて、外は朦朧(ぼんやり)と霞んでいた。

と、改行を前に入れた視覚的にも美しい文はこう訳されています。
Ding–A wind chime tinkle in the evening air. The sun that had been shining on the veranda, had long since dimmed, and the air outside was hazy with fog.

よい訳です。でも縁側がベランダになるのも致し方ないとして、凛としてしっとりした夏の情緒と粋さは立ち上ってきません。

忌々しい。(いまいましい)

Eerie

前後に改行が入った間の空気、そして忌という文字が有する陰湿な重量感が欠如しています。物の怪だの陰陽道だの、戦後の日本の佇まいだの日本家屋、四季感などが海外の読者にどれだけ伝わるのか、英語に置き換えられたら失われてしまうであろう部分ばかりを拾って読んでしまい、文字のぎっちり感とあわせてどっと疲れました。どれだけ詰めこまれているかは、この上下巻のヘヴィーな本がたったの(?)320頁に納まっている事実が物語ります。


英語圏の読者にどう受け入れられているのかと、AmazonとGoodreadsのレビューを覗いてみると、これが意外にも概ね評価が高いんです。星ひとつの読者ははじめの50頁で脱落。これは解ります。ジャンルとしてはミステリー/ホラー小説というカテゴリーに入っちゃうんだろうけど、枠から相当はみ出ているし、非常に毛色の変わったミステリーで、ヘビーであるから。

very Japanese locked room mystery peppered with elements of traditional folklore and postmodern views towards the supernatural.

this is a book about obscure elements of the Japanese occult… described for dozens of pages on end with exacting historical detail and explained via psychology and philosophy of the mind…

こういうのまで。
Vertical has done a lovely job of retaining the feel of the Japanese, while making it also a pleasurable read in English.

日本文化の理解度が低い読者がどれだけのジャパニーズ性を汲み取ったと言い張るのか、と因縁つけたい気分でいたら灯台下暗しなのに気づきました。

彼らは、わたしが欠如していると騒いでいるものが無いことそのものに気がつかない。絵の具がてんこもりの油絵を、水彩画として鑑賞しているようなものか。しかし、絵が本来持っている、モチーフ、構図はかわらないんじゃないか。肉づきがわるいだけに骨の方に集中する鑑賞方法あるではないか。ま、そこが翻訳小説の原点なのでしょうか。

結局日本人が日本語で読んで素晴らしいと思っているチェーホフやサルトルやその他多くの海外文学も、ロシア人やフランス人からみれば同じことなんでしょうね。ドイツ人作家が書いた詩の英訳版が好きだなんだけれど、ドイツ人はなんじゃこりゃぁって思っているはずだし。なんてことを考えて読めばスピードもあがる。そうだ、この本は出だしがちょっとスローペース。でも冒頭の理詰めの部分が面白いところであり、理論部分はかえって英語の方が解りやすかったりします。

.…というような、翻訳小説を読むたびに囚われる思いに、半ば暴力的に打ちのめされるほど原作のニッポン度は凄いということを再認識しました。

以下の引用が何をカバーする本かということを物語ります。
京極堂はまた、驚く程日常生活に関係ない知識を持っていた。
特に仏教、基督教、回教、儒教、道教、陰陽道、修験道から、各国各地の宗教や習俗、口碑伝承の類(たぐい)の知識は豊富で、私の興味を引いた。一方京極堂にとっては、私が鬱病の治療を受けた際に蓄えた神経医学や精神病理学、心理学などの知識が興味の対象だった。

これは村上春樹の本を英訳する作業の100倍の労力とリスクを背負っているわけで、訳し遂げたAlexander O Smithさんと英訳版を世に出したニューヨークの出版社Verticalの英断と偉業に敬意を表したいです。しかしながら、ががーっと流し読みしたあと、原作の頁を捲ると目薬をさしたように目が潤う。

翻訳研究に携わっていないわたしにとって英訳版は、京極作品だから当たり前として受け取っている原作の極めて高い完成度と日本の美を多角的に味わう副教材みたいなものでした。

原作を味わいましょう。じっくり日本語で。どんな言葉に置き換えられているかちょっと興味のある方のために、キーワードを以下に。

憑き物落とし exorcism
狐狸妖怪 ghosts, transforming foxes and tanuki
魑魅魍魎 evil spirits running amok
百鬼夜行 Night Procession of One Hundred Ghosts
陰陽師 Onmyoji

この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君。
There is nothing that is strange in this world, Sekiguchi.

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モノクロ写真好きによる「こだわってるこれについてひとこと言いたい」ブログ。犬が歩けば棒に当たる的に社会・本・映画・フードなど。使用写真は自前です。

9 コメント

  1. 京極夏彦さん、日本語でも読んだことはないですね。

    でも、このブログの主旨は京極さんの作を土台にした翻訳論といえるのでしょうか。
    そうだとしたら、翻訳論に2つの意見で参加させてくだい。

    ひとつ、サニー・サイダーさんの、「文を書く事で、漢字の粋さ、改行、ページの納まりかたなどに配慮して、読者の目線でレイアウトを整えていくことがどんなに大事なことか」と、いう主張に、双手をあげて同意します。それに、リズムを流すこと。(それに連なって、わたしが、一つ、気がついたことです。サニー・サイダーさんは「私」は「わたし」で決して漢字では書かれませんよね)。

    ふたつ、私!は英語しか分かりませんが、翻訳されたものに日本語で表現されている深みを期待して読むと、意外とあっけらかん~としていて裏切られることが多いです。でも翻訳でない英文を読んで、
    「これ、これ、これが私が言いたかったことなのよね」という文に遭遇することも、とても多いです。

    • 深夜にガがガーと書いて、寝かせないでパブリッシュボタンを押すといけませんね(笑)朝起きると、これを書いたのはわたしかー、というかんじでちょっと手をいれました。ガチに翻訳論を語ろうなんて気はなかったんですが、ただ京極作品はMishimaや Kawabata作品の何倍も様式美(下のnisomaruの言葉がapt)がポイントなんですよ。
      好き嫌いに分かれる本ですが、ぜひ釉子さんに読んでもらって(日本語の方ですよ)ご感想を伺いたいです。(好みじゃない可能性大)様式美を汲み取られるのなら、直木賞を受賞した「後巷説百物語」の方が読みやすいのはたしかですが。

      英語の方が解りやすいのは賛同します。釉子さんのお書きになったもの、拝読したいです。

      • ひとつ書き忘れていました。釉子さん。
        無色透明な英語の『I』に相当する日本語があればいいのですが(あらこれも言い古された翻訳論風ですね)、自己認識の領域ですね。わたしは「わたし」で、アルコールが入るとときどき「アタシ」になるわたしです。釉子さんは漢字の「私」なのですね。わかる気がします。

  2. なぜか時期で区切ってしまいますが、おんもらきのーまでは全て読みました。というか次はまだかと焦れるほど好きでした。あの頃は普段の文章や物言いにまで影響が出てしまって、思い返すと恥ずかしいです。その後は別に嫌いになったわけじゃないけど、どういうわけかぱたっとやめちゃってます。
    ページの終わりが必ず句点だったり、改行に意味があったり、仰るように漢字がとひらがなを美しく使ったりする、一種の様式美ともいえそうなトータルでの完成度が気持ちいい。
    そういうもまで含めての京極作品でしょうから、装丁やフォントにはこだわって欲しいところです。
    最初の50ページで挫折する人が多いのは本国でも同じですよね。合わない人には合わない。
    あと、海外なら当たり前そうな「薔薇十字探偵社」という名前があの時代(架空ではあるけれど)の日本においてどれだけ浮いているかってのも、わかるとわからないでは雰囲気がかわりそう。
    SFやファンタジーの日本人作品が、もっと海外でも評価されたなら愉快だなあ。

    • 普段の文章や物言いにまで影響がでるのだよ、nisomaru君。って感じですかねぇ(笑)わかりますわかります。おまけにコンピューターが漢字を憶えちゃって、次にも第1選択肢として出てきちゃうからよけい。

      一昔前まではガイジンが読む日本語は三島か源氏物語だったんですけど、やっぱりいまのムラカミ人気はすごいです。吉本ばなな、桐野夏生、村上龍なども健闘してます。パーティなんかにいくと、ムラカミ作品と北野武の映画について聞かれちゃったりするので、模範解答を用意しとかなくっちゃっというご時世です。SFやファンタジーこそ翻訳しがいがありそうなものですよね。

  3. 私も、このコメント欄では影響されて「わたし」で通していましたよ。今日まで。でも、ゴッチャになるので今日だけ「私」に変えました。私が好きな作家が、どんな呼び名を使って自己認識をしているのやらをちょっとみてみます。村上(春樹)さんが僕・ボク・オレ・論を述べていましたよね。

    さて、2つ。
    前回のそら豆欄に、さらにコメントをお送りしています。ご高覧のほどを。
    次は、このコメント欄に灰色のハイライトがかかるようになって久しいのですが、どうしたのでしょうか。
    チト読みにくい。

    • これはテンプレートを使っているだけですので、コメント欄のシェードは変えられないみたいなんです。全部のレイアウトを変えてしまってから、コメント欄の色に気づいたので、手遅れでした。申し訳ないながら当分このままいきます。本文が黒地になっちゃうともっと目が疲れそうなので。
      そのうち飽きたら違うかたちにかえるかもしれませんが、時間がありませーん。

  4. こんばんは~~
    翻訳というと外国文→日本語という感覚しか無いのですが
    今回のsunnysiderサンの記事はは日本語→英語という事ですね!!
    日本語は複雑ですよね~同じ意味なのに幾通りも
    言葉・表現があったり、同じ言葉でも場面によって意味が違ったり…
    私も未だ意味のわからない日本語に
    遭遇する事がちょいちょいありますもん
    京極さんの作品は未読なのですよ、sunnyさんはファンですか?^^
    姑獲鳥、は英語は無いのですかー?陰陽師もー!(笑

    • 京極さんは好きか嫌いかに分かれちゃう作家さんじゃないでしょうか。読む本が幅広いフォレさんのレーダーにはさすがに入っていないみたいですね。本がまた分厚いんです。煉瓦本と呼ばれるくらいだから。日本からスーツケースに入れて持って帰ってくるの大変でしたよ。なにかおすすめ作家さんありませんかーー?

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