帰路の飛行機の中で綴る今回の日本ステイで感じたこと。お題は「セイ」と「トモ」。
「セイ」
ニュースは主にネットで視るので紙の新聞を読む機会が極端に減っている。ネットでは新聞は「視る」もので、紙バージョンは「読む」もの、というのがわたしの感覚。実家の父は日経新聞と西日本新聞の両方をとっているので、リビングルームはなんだか紙の占める割合が多い。地方新聞の特長であるチラシの多さも一因だ。紙の新聞の優位性は何か。それは一覧性である、という新聞記事を読んだ。一覧性とは、ぱっと見渡せて内容が把握できる、みたいな意味だろう。たしかにその記事そのものをネットだとクリックして読んだ可能性自体が低い。全体を視野にいれることができて、そこから目にとまるものを読み始めることができる利点がある。うーむ、それは解る。実はこの言葉自体をはじめてしった。どうせ新しい造語だろうと高を括っていたら国語辞典(もちろんネット)に載っていた。
このナントカ性という具合に性という接尾語がついている言葉は非常に多い。英語でいうところのナントカbilityみたいなものか。自動車とか機械系の仕様書によくみられる静粛性だのグリップ性だの環境性だの伝導性にはじまり、運動性とか身体性とか抽象的な概念を示す場合から、ネットがらみではリンク不能性なんて言葉もみつかった。普通の名詞/形容動詞に性をくっつけるだけで、理論的、常識的、またはあたしってアタマよいのよねぇ的な響きをもつ便利な言葉ができあがる。たしかに英語にもそういう造語はあるけれど、日本語の方が多い気がするのよねぇ。なんてことを書いていたら、今、自分が「的」という文字をつかったのに気づいた。このナントカ的もよくある。英語だってハイフンでつなげることで造語がいくらでも可能だけれど、日本語のお手軽造語性のほうが漢字表記である分、幅広い気がする。
どこの国の人間も自国の文化や言語を特別視したがる。そういう意味でこういう風に日本語にこだわるのってやっぱ日本人の証だわ。
「トモ」
フツーとよばれるライフスタイルを送っていると、自分の周りに居る人々は家族、同僚(仕事を持っている場合)、同級生(学生の場合)がほとんどだ。子育て中の人は、子育てという仕事を遂行するために関わっている人々だから、ママ友も同僚だと認識しておいたほうが健全。今回の訪日で実感したのは、それ以外の人々で十年以上の交流を持ち、日常生活の中で話せない/話さないことを話せる人々の存在の貴重さ。このブログを読んでい方が二十代だったら十年というスパンは該当しないでしょうが….失うものも得るものも多い中、残るものの重みっていうんでしょうかねぇ。もしこのブログを読んでいたらフレンズよ、あなたたちは残飯ではありませんので念のため。凡人が愛とはなんぞや語るのが愚の骨頂であるのと(エイリッヒフロムの「愛するということ」はよい本でした)同様に、友とは何ぞやを語るほどあたしは野暮じゃありません。ただそこに在るっていうもんなんでしょうなぁ。
時と場所を越え、性別や職業も関係ない繋がり。I’m connected.と感じれることは幸いである。そう感じさえてさせてくれた人々に感謝。
ふっきれない元カノの情報や画像を携帯を無理矢理奪って削除する、なんて二十代のコがやりそうなことを、居酒屋でいい年こいた大人がフツーやりません。それはキミのことを思ってのこと。時の重みと理解と信頼。ただiPhoneのデータを消してもiCloudにバックアップされているであろうという当然のことを失念して盛り上がっていたのは、やっぱ焼酎としゃべりすぎによるハイテンションのせいか。
また、朝の9時に空港まで迎えにきてくれた友たちにもこの場をかりてA big thank you.
今回出逢った印象に残る言葉ふたつで締めといたしましょう。
「おたがい変わらないよね。違うのは〇〇年歳をとったということだけ」
(西鉄福岡駅のプラットフォームで終電が入ってきたときに某氏がぼそりといった言葉)「Time flies, but you are the pilot.」(KLMの紙ナプキンに刷られています)
読ましていただいて、思ったことがあります。
サニーサイダーさんは、日本へ「行くと」、今回の「訪日」は….. ですね~
私は、この言葉にどうしてかしら、こだわるのです。
日本へは「帰る」、「帰国する」、住んでいるここシドニーへは「戻ってきた」 で「帰ってきた」ではないのですね。
ここは、「終の住処」になりそうなのに、どうしても帰ってきたにならないところが、覚悟ができていないらしい。
それにしても、太宰府、光明禅寺の石庭、人はどこを歩くのでしょうか。波模様を壊すのは惜しい。
釉子さま
帰るという言葉の使い方。これは海外生活者の命題じゃないでしょうか。
Home is where the heart is.とよくいわれますが、ものや人々を想う自分の気持ちそのもの、つまり自分のハートがhomeであると割り切るようにしているので、物理的な移動に帰るという言葉は意図的に使わないようにしています。そういう意味では飛行機というどっちつかずの空間が一番ほっとする場所かも。
庭は散策するためのものと、眺めるためのものがあります。この手の石庭は縁側から眺めるためのものですよ。借景など他にも日本庭園は奥深い要素がありますね。今回幻滅だったのは、昔ながらの土産屋や梅が枝餅屋が並ぶ参道にひときわ目立つスターバックスができていたことです。
「ただそこに在るっていうもんなんでしょうなぁ」
深い。肝に銘じて。
返事遅れました。トレッドミルでバランスをくずして指を強打して、右手の中指が使えません。いたた。
在るもの、というのは友情だけでなく、家事も増える暖房費、クリスマスの出費も!
これから買い物です!Have a nice weekend.
あれ〜大丈夫ですか!トレッドミル、よそ見するとやられますよね、お大事にしてください。明日は今年最後のレースです・・・って言ってもやる気なしでワイン飲んでます。ではでは♪
こんばんは
船を編む、という辞書を作る人達の物語を読んだ事が有りますが
日々、新しい言葉が生まれて行ってるんでしょうね~
何々性、何々的、なんて凄い使っちゃってますよ…恥ずかしい(笑
本を読んでいて、未だに知らない日本語とか出てくると
嬉しくなっちゃうんですよね~それを意味もちゃんと調べたりして
この歳になってもそうやって新しく覚える事が出来るのが凄い嬉しくて^^
…脱線しましたが><。
友達、お金では手に入れる事が出来ないとても尊い貴重な大切な存在ですよね
人との縁や運命を考えたりしちゃうと、止めどないですけれど
確かにそこに或るもの、間違いないです
同じ様に親兄弟の事をぼーーと見てると
なんで家族なんだろう…なんてこれまたぼーーっと考えちゃったりします
三浦しをんですね。読みたいんですが文庫じゃないので今回諦めた本です。
読みたくなりマスーーーー。辞書をきちんと引く真っ当な本読みさんなんですね。
お金でほとんどのものが買えますが、買えないものの価値は数字に置き換えられないだけに貴重です。ああ、だめだ。右手が使えないので時間がかかります(泣)
Sunnysider-san,
Glad you were back home safely.
To me, it is “Iku” to Japan and “kaeru”, ( not a frog), going home to Seattle for decades now. I don’t recall since when but, it could be after passing of my parents and my elder brother. Since then I felt that I no longer have a place to call home in Japan. Ironically, when I was with them, I often thought about weighty Japan’s “Kazoku Seido.” It was contrasted with the American family system, which is much lighter.
As for the old friends in Japan, they are a very special people indeed.
この帰るという言葉はgoing back とかgoing homeにない独特の深さがありますよね。またkazoku seidoというのが瞬時に正しく漢字変換できず家族聖堂かと思ってしまいました。家族制度にはそういうsacredでheftyな要素があります。さて来年はhalf empty nestedになる予定なので、こちら側のバランスの変わる年になりそうです。
こんにちは。
私ももう日本はホリデー先の感覚になってしまいました。長年住んだ家でも今では「母の家」で、こちらの小さい家(に住んでます、、、)が「私の家」ですねー。
今日娘が「私たちは Elizabethian だけど、チャールズに変わったらどうなるの?」と訊いてきて、改めてこっちが私たちのホームなんだなぁと感じました。Elizabethian なんですってよ(笑)
スタバの登場はショックです!反対運動とかなかったのかなぁ?!でもなんとなくそこのところは福岡らしい感じがします、、、、、、
若い時から流行語や造語などを使うのが好きではなく、ムカつく、ですら使わないのに、率先して使っているみたいに言われることが多かったです。声のトーンや口調の軽さ、落ち着きのないキャラクターに裏打ちされたイメージなんでしょうから仕方ないのでしょうけど、そんな私ですが日本のテレビでは大人の出演者にはもっと正しい日本語を使って欲しいと願います。せめて新聞だけは流されずに頑張って欲しいなぁ。
昭和とか平成よりエリザベーザンの方がどーんときますね。そのうち新築の家たちもそういわれる日がくるのか。(ちなみにうちのボロ屋はエドワーディアンです)
ちなみに太宰府参道のスタバの写真をアップしました。デザインは考えてはいるんです。木を前面に打ち出して。インテリアもすごそうです。でもやっぱりout of place.これがコンテンポラリーなギャラリーのお隣なら万歳なんですが、茶店と土産物屋がならぶ細い参道というのはねぇ。
http://www.starbucks.co.jp/store/concept/dazaifu/
ハムステッドにマクドナルド(赤じゃなくて茶系のインテリア)が開店したときを思い出しました(20年以上前ですが)。ブリックレーンにもSubway(地下鉄じゃなくてサンドイッチチェーンの方)ができたという話も聞きました。
半熟卵とハムとレタスがはいったたい焼きが売っていました。参道から外れたところで。甥っ子が食べてるのを試食したら美味かったー(笑)
落ち着きのないキャラクター???そういう人はあんなに興味深いブログをしたためたりませんよー。世間に理解を求めてはいけません。色眼鏡みる人たちがいっぱいいます。日本のテレビって吉本系のトーク番組ばっかりで観るものはあまりなかってです。ガイアの夜明けは面白かったけど。
久しぶりの日本は楽しめましたか?
無事帰られたようなので何よりです♪
私も少し前に偶然にも久しぶりに友人と再会できて感慨深く思っておりました。
そういう「ただそこに在る」友人や場所というのは、自分の年輪の中に刻まれたものなんでしょうね〜。
無事帰ったんですが、時差ぼけのままトレッドミルで走ってバランスくずして右手の中指を怪我してクリック不能状態なので、不便でなりません。
いやーっ、年輪ってことば、しっくりきますね。人格に幅がでてきいる(体格ではなく!)と思いたいものです(笑)